第2回例会講演要旨「『私の中のアメリカ―@us/nippon.com』出版に際し、
                  伝えたいメッセージ」

講師:青木怜子大学女性協会前会長    20121020



 先生をお呼びすることを提案して下さったのは、京都支部会員の野口久美子さん(青木先生は聖
心女子大学で彼女の指導教官)であり、先生との連絡を一手に引き受けて下さった。心から感謝を
申し上げる。せっかく前会長をお呼びするのだからと、中川支部長が大阪、神戸、奈良、福井の各
支部に声をかけ、この5支部共催が実現した。出席者は、大阪支部8名、神戸支部7名、奈良支部
2
名、福井1名、青木先生の元ゼミ生5名を含むビジター8名を入れて、合計51名だった。

 講演会の終了後は、30分ほど青木先生と5支部との交流会をもち、530分から、日本料理店
「濱登久」で、大阪支部5名、青木先生の元ゼミ生5名を含む29名が出席して懇親会が持たれた。
以下がその報告である。

1.講演「『私の中のアメリカ―@us/nippon.com』出版に際し、伝えたいメッセージ」の要約

アメリカ研究にいたる道のり
 本の題の中にある @us/nippon.com」について。「@.com」は、パソコンをおやりになる方はご
存じの、メールアドレスにつかう記号だが、私が交互に日本とアメリカにいたので、それをあらわ
す方法としてこれを使った。

 私は1936年、1歳2か月の時、父の赴任にともなって、家族と共にアメリカ・ロスアンジェルス
に渡った。3年半後の1939年に帰国して、小・中・高と日本の学校に通ったが、その間、1941
には戦争が始まり、1945年、小学校5年生の時に敗戦を迎えることになる。戦争中はアメリカ帰り

ということで教師から冷たくされ、屈折することもあったが、戦中・戦後ずっと良い友人に恵まれ
た学校生活を送った。少し前には軍国主義一色だった世の中が、連合軍の進駐とともに、急にアメ
リカ文化の氾濫となる。歴史の教科書を墨で黒く塗りつぶしたり、価値観が180度転換した時代を

経験した。その後は、アメリカ映画を楽しみ、お気に入りの俳優に英語で手紙を書き、サイン入り
のブロマイドを受け取って喜んだ。なつかしい思い出である。


 大学は聖心女子大学に入り、英文学を専攻したが、かつてのアメリカへの郷愁がどこかにあった
かもしれない。大学はカトリック系の学校で、学長がアメリカ人で、教授陣も多くが外国人だった
ので、授業は英語で行われた(日本語の通訳つきで)。こうして初めて英語の世界に触れたが、同

時に、欧米的価値観も教えられる。――1人の人間の価値の大切さ;国際的な視野をもち、多人種
や多言語を許容する寛容な心を養うこと;自己を管理して自分の行動に責任をもつことの重要性な
ど。また、強制的ではなく、自分から進んで他の人の役に立つことをする、あるいは、自分の学ん
だことを社会に還元する、いわゆるボランティア活動の大切さを、大学が行うさまざまな行事に参
加するなかで教えられた。まだボランティアという言葉が日本の社会では聞かれたこともない時代
だった。

 1957年に大学を卒業するが、その翌年の1958年に、父の赴任にともない、両親と共に今度はワ
シントンDCに行くことになる。私は、ディケンズのように、貧困層などを扱った社会的な作家が好
きで、文学より社会史のほうが向いていると思っていたので、大学院では、専攻を変え、歴史のほ
うに進みたいと考え、ワシントン市内のカトリック系のジョージタウン大学大学院の史学科に登録
して、専攻に19世紀イギリスの対アフリカ外交史を選んだ。その時副専攻を決める必要があり、大

学からは日本史を薦められたが、資料の少ないアメリカで日本史を研究することもないと思って、
アメリカ史を選んだ。私は大学でアメリカ史を勉強したことは無く、知っているのは独立戦争と南
北戦争くらいで、これがのちに私の専門になるとはこの時は夢にも思っていなかった。

 ワシントン生活は3年半で終わり、1961年夏、父の帰任とともに帰国することになった。修士の
課程を修了し、卒業試験にも合格したが、修士論文を完成させていなかったので、1人で残って完
成させるか、帰ってから日本で完成して後から提出するかの、二者択一に迫られた。色々考えて、
後者を選び、帰国した。帰国後は、母校とその他2,3の大学で非常勤講師として、英語、ヨーロ
ッパ史、アメリカ史を教えた。上智大学で、非常勤講師としてアメリカ人の学生にアメリカ史を講

義するようになったこともあり、アメリカ史が面白くなって、これを私のキャリアの芯としようと
思うようになった。

 では、アメリカの何が私を捉えたのだろうか。

アメリカの歴史が生んだアメリカの特性と魅力

アメリカ史はどのような要因に支えられているのだろうか。アメリカの特性はたくさんあるが、
私の体験とも照らし合わせて、大きくわけて3つある。
1)広さへの挑戦(広大な空間の広がり)
2)時間的推移が生むアメリカ史の積層
3)多様性と流動性

 最初にアメリカ大陸に渡って植民地を築いたのは、イギリス、スコットランド、ドイツなどから
の、いわゆるWASP(White Anglo-Saxon Protestants)で、1607年にヴァージニアに最初の組織的な
植民地を形成し、次に1620年にニューイングランド植民地ができる。このようにして移民が渡って
くるようになって、最初は東の大西洋沿岸にこびりついた、狭い帯のような地域に定着する。それ
13の植民地になり、本国イギリスと独立戦争を始め、1783年に休戦条約を結び、国家として誕
生する。最初は、広い大陸が横にあることは全然念頭に無く、目の先にあるものを耕して、命をつ
なぐというものだった。自然災害やその他の艱難を乗り越えて、その年の収穫をやっと手に入れた
移民たちの神に対する感謝から、感謝祭の習慣が始まった。


 当時のアメリカ大陸の大きな特徴だったことは、広い土地が誰の支配も及んでいない、いわゆる
「自由地」であったということである。もちろん、原住民はいたし、彼らとの対立もあるが、原住
民は土地・資源を神から与えられた資源として受け入れていた。いわゆる部族間の群雄割拠がある
程度はあるが、夏には移動し冬には帰ってくるという、定住地を枠とする決まりも法律も無い生活
をしていたので、封建時代のヨーロッパからやってきた移民たちには、それが自由地と思われた。
そこに誰のものでもない土地があるということで、その自由地を自分のものにするには、自分が働
かなければならない(勤勉の精神)。広さに働きかける個人、個人の自然への挑戦。それが個人主
義を生むが、しかし自分の土地を守るためにはある程度の共同体を作って防衛しなければならない。
協調主義も生まれる。


 移民が増えていくに従って、西漸運動が起こる。ミシシッピ川までは緑豊かな大地であるが、そ
こから西は広大な不毛の砂漠、開拓を阻む大自然が広がる。だからミシシッピ川はなかなか渡れな
かった。しかしそれを破ったのは産業革命である。それによってもたらされたさまざまな技術によ
って、乾燥地帯での農業が発達した。また、畜産農家はかつては家畜のための囲いをつくることが
できなかったが、鉄材、はがねが作られるようになって、鉄条網を作ることが出来た。汽車が通る
ようになった。トラクターを使ったり、機械化が進む。何より灌漑の便がよくなる。さらに、西部
では金鉱脈、銀鉱脈が発見され、大量の移民が流れこみ、いわゆるゴールドラッシュがおこる。そ
の様にして移民の波は西海岸にまでたどりついたのである。もちろん日本人の移民のように、逆に
西海岸から奥地に入ってきた人たちもいるが、大勢は東から西であった。

 この広大な土地は地域的な生産性の格差を生み、経済的格差を作り出した。その1つが、南北の
対立となり、南北戦争の1つの原因となる。南北戦争が起こったのは奴隷制度の問題だけではない。
この広大な土地への広がりは、当然時間差を伴っておこっている。

 アメリカ国家の基礎を作った人の多くはイギリス、スコットランド、ドイツ、スカンディナビア、
フランス、つまり主として西ヨーロッパからの移民で、イギリス国教会の腐敗に抗議して国を出た
セパラチスト、ピューリタンなどが主であったが、19世紀半ばからは、アイルランド、ポーランド、
南欧などのカトリックの貧しい国からの大量の移民が増えてくる。そして先に定住して成功したも
のは、後から来る移民を差別し、それが移民間の対立を作るという循環を繰り返すことになる。ケ
ネディが大統領になる前は、アイルランドの移民は差別されていた。そして今までは、ずっと社会
の底辺に置かれているのはNative Americansと黒人だったが、最近は、この人たちにも中間層が出
てきているということである。このように多言語、多民族の移民が層を成して、時間差を伴い流入
した結果、その多様性と流動性は国のバイタリティの源になっている一方、すべての機会は万人に
平等であるという原則の下に、融合と対立、保守と革新を繰り返している。

 結論としてなにが言えるだろうか。「自由地」の国アメリカは、広大なアメリカ合衆国となり、

そこに多様な文化・生活基盤をもつ移民が流入し続ける。多様性は流動性を生み、その流動性が柔
軟性を必要とする。この絶えず変化する社会の中で、ぶれない核心軸が必要。その1つが、自由、
平等、幸福の追求をうたう「アメリカ独立宣言」の建国理念だと思う。

              ☆   ☆   ☆   ☆   ☆

 青木先生は、パート1「アメリカ研究までの道のり」とパート2「アメリカの歴史が生んだアメリ
カの特性と魅力」を1時間半の短い時間でカバーなさり、密度の濃いお話だった。時間の制約から、
質問は2つに限った。1つは、「アメリカはアフガニスタンを始め、世界に軍隊を出している。冷
戦時代なら、アメリカ国民がそれを支持するのは分かるが、アメリカが経済危機だといわれている
今、国民はどういう理由でこれを支持しているのだろうか?」というもので、先生のお答えは、「ア
メリカにも支持する人、しない人がいると思うが、政府としてはそうすることで平和が維持され、
世界秩序が保たれると思っているのではないか」とのお答えだった。2つめは、「自分は化学会社
の調査部で働いていて、アメリカと特許のことで交渉をするが、いつも自己主張ばかりで、柔軟性
は無いが、今の先生のお話と矛盾するのではないか?」というもので、先生のお答えは、「ヨーロ
ッパでは封建制度、君主制度などがあり、それらを通して民主主義が生まれてきているので、それ
を相対的なものとしてとらえる余裕があるが、アメリカには最初から自由主義、民主主義しかなか
ったから、それを絶対的なものと考え、対外的に主張する。法律に対する考え方も、それと同じで、
絶対的なものと考えていると思う」とのことだった。2つの質問の後で、先生が、「答えにくい質
問ばかりなさるわね」とおっしゃったので、皆どっと笑った。

 先生のお話のなかでは、太平洋戦争をどう考えていらっしゃるのかは触れられていないので、ア
メリカ史の専門家としてどう考えていらっしゃるのかお聞きしたい人もいたのではないかと思われ
る。また、アメリカ先住民の問題では、コロンブス以前にはアメリカ全土に居た先住民が、現在は
0.3
%の土地に押し込まれ、人口はその当時から現在に至るまでの間に10分の1に減少したという
事実は、先生のお話では充分説明できないように思われ、それも先生にお聞きしたかったが、いず
れも時間が無く残念だった。

 お話の中で、先生が学生時代から、社会に奉仕・還元するボランティアのことを自覚的にお考え
になっている点が非常に印象的だった。大学女性協会では
2度会長をなさり、また国際大学女性連
盟(IFUW)の会長も勤められ、それ以外にも国連総会日本政府代表代理として2度も国連総会でご
活躍になっている。先生の世代では本当に数少ない国際的に活動する先駆者である。今度本部で先
生が「人材育成委員会」を立ち上げて、国際的に活躍できる人材を養成する計画だということであ
るが、ぜひ先生の貴重な国際経験を生かしていただきたいと会員一同期待している。

2
.青木先生と5支部との交流

 福井支部は現在会員が5名で、会員を増やす努力もなかなか実らないが、頑張ってやっている、
ということだった。大阪、神戸、奈良、京都もそれぞれ現在の活動を話したが、神戸、京都は定期

的に例会をしているが、奈良、大阪は不定期で、神戸以外は動員できる会員が少なく、問題を抱え
ているとのことだった。

 5支部とも問題にしたのは、本部から来る資料が増えていて、それが全部メールでくるので、そ
れを全会員に配布するには手間もかかるし、紙代、郵送代がバカにならない。メールをする会員に
は転送して送ることが出来るが、メールをする会員は限られているので、他の会員にはどうしたら
いいか困っているということだった。青木先生のお答えは、メールをする人にだけ送るようにすれ

ばいい、というものだった。支部会員の老齢化と会員数の減少はどの支部にも共通する問題なのだ
が、どの支部からも良い案が聞かれなくて、残念だった。

3.懇親会

 5時半から、青木先生を囲んで懇親会を持った。青木先生の元ゼミ生全員に先生について話して
もらったので、先生の色々な面を知ることができ、まるで同窓会のように和やかな会であった。先
生がドライブ好き、旅行好きなのは、お話からも、ご本からもよく良くわかるが、ゼミ生のお一人
が、先生がドライブに行くときはスニーカーを用意しているのですぐ分かった、とおっしゃったの
で、みなどっと笑った。先生は冷酒がお好きということで、隣の中川支部長とさしつさされつ、美

味しそうにお飲みになっていた。8時半の新幹線でお帰りになるので、8時前に皆でお礼を申し上げ
て、お見送りをした。